小学2・3年の頃、自殺を考えた(2)
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その頃から57年が経ち77歳になった。満州侵略からの15年戦争、そして敗戦、そこから教訓をどううけついでいるのか、再び戦争に参加するようになった今の日本、それはなぜか。そこには戦争の原因を追求するより、まず自分自身が生きて行くことに追われていた日常、社会や政治を考える余裕がなかった戦後の時期もあった。
もう一つあの戦争の責任を曖昧にしてしまった被害者意識は、加害者意識、侵略したアジア諸国民の痛みを想像しなかつた日本人、勿論それは日本の支配層、マスコミを含めてその方向に誘導したということもある。なかでも昭和天皇の責任を問わないですませたことが大きいと思う。
いま多くの日本人は、北朝鮮と金正日を異様な国、指導者だと見ている。しかし、私には59年前の日本は同じように見える。戦前の日本と同じの今の北朝鮮、その北朝鮮をどうしたらアジアに平和をつくりだす国にすることができるのか。日本は深く考えなければならないことがあるように思う。いま日本はどうしたらよいのか、私は北朝鮮の人たちとどうしたら仲良くできるのか、そのことを真ん中においた対応をすることだと思う。
隣の家の人とケンカをすればするほど不仲になり、双方が常に不安な気持ちで暮らすことになる。こんな隣人と仲良くすることの第一は過去に相互にどんな間違いがあったのかを冷静に話し合うことだと思う。それをしないで相手が間違っていると非難するだけでは解決できないだけでなく、傷を広げるだけではないかと考える。
話は変わるが、石原東京都知事は「終戦60年には天皇に靖国神社に参拝してもらいたい」と発言したが、天皇のあらたな政治利用を公然と始めようとしている。戦前がそうだった。なんでそれが必要なのか、ほんとにそう思っているのなら、まず、自分の孫たちを自衛隊に入隊させ、イラクの戦場の第一線に出したらと言いたい。
小泉首相も同じ、支配層は昔から自分の子どもや孫を戦争の第一線に出さず、後方の指揮する所に置いていた。私の父母は軍人にはなるなとよく言っていた。敗戦のとき20歳の兄を先頭に5人の男兄弟だったが、1人も軍人にならなかった。昔でいえば「国賊」「非国民」だったのだ。
今の時代を過去の戦争体験から見るとき、見えてくるのは戦争の正当化が日一日と広げられていることだ。私の子どもの頃とよく似ている。私が体験した戦争は、全く必要も意味もなく、国民の日常生活に襲いかかる、不条理な暴力だけであった。
それは今のイラクの戦争も同じ、だれがどんな理由をつけても正当化はできない。何時かはウソであることが必ずわかる。日本の戦争が侵略戦争であったことが、戦後になって分かったように。
しかし、イラク戦争はかっての日本のように多くの無辜の民衆の命が毎日失われている。それも戦争に無関係の民衆が、その痛み、被害の回復をどうするのか、ブッシュ大統領も小泉首相は2人で何度も会談しているが、そんなことを話し合ったと聞いたことはない。戦争をはじめたり、それを支持した責任を明確にし、その責任をとってもらうことをしないと戦争はいつまでも繰り返される。 この朝、県外にいる4人の孫が次々に「おじいちゃんおめでとう」と電話をかけてきた。喜寿を祝う電話だ。その孫たちの親も戦争を知らない時代だが、戦争のない平和な世界のことをいつも頭の中心において、家のことは妻に多くを頼ってきたが、子どもに戦争を語ることは欠かさなかった。戦争はなぜ始まるのか、誰が始めたのかを考える人間、それは自分で考え、自分で判断することができる人間への成長のために必要なのだ。憲法でいわれている主権者になるためにも必要なのだ。
もう一つあの戦争の責任を曖昧にしてしまった被害者意識は、加害者意識、侵略したアジア諸国民の痛みを想像しなかつた日本人、勿論それは日本の支配層、マスコミを含めてその方向に誘導したということもある。なかでも昭和天皇の責任を問わないですませたことが大きいと思う。
いま多くの日本人は、北朝鮮と金正日を異様な国、指導者だと見ている。しかし、私には59年前の日本は同じように見える。戦前の日本と同じの今の北朝鮮、その北朝鮮をどうしたらアジアに平和をつくりだす国にすることができるのか。日本は深く考えなければならないことがあるように思う。いま日本はどうしたらよいのか、私は北朝鮮の人たちとどうしたら仲良くできるのか、そのことを真ん中においた対応をすることだと思う。
隣の家の人とケンカをすればするほど不仲になり、双方が常に不安な気持ちで暮らすことになる。こんな隣人と仲良くすることの第一は過去に相互にどんな間違いがあったのかを冷静に話し合うことだと思う。それをしないで相手が間違っていると非難するだけでは解決できないだけでなく、傷を広げるだけではないかと考える。
話は変わるが、石原東京都知事は「終戦60年には天皇に靖国神社に参拝してもらいたい」と発言したが、天皇のあらたな政治利用を公然と始めようとしている。戦前がそうだった。なんでそれが必要なのか、ほんとにそう思っているのなら、まず、自分の孫たちを自衛隊に入隊させ、イラクの戦場の第一線に出したらと言いたい。
小泉首相も同じ、支配層は昔から自分の子どもや孫を戦争の第一線に出さず、後方の指揮する所に置いていた。私の父母は軍人にはなるなとよく言っていた。敗戦のとき20歳の兄を先頭に5人の男兄弟だったが、1人も軍人にならなかった。昔でいえば「国賊」「非国民」だったのだ。
今の時代を過去の戦争体験から見るとき、見えてくるのは戦争の正当化が日一日と広げられていることだ。私の子どもの頃とよく似ている。私が体験した戦争は、全く必要も意味もなく、国民の日常生活に襲いかかる、不条理な暴力だけであった。
それは今のイラクの戦争も同じ、だれがどんな理由をつけても正当化はできない。何時かはウソであることが必ずわかる。日本の戦争が侵略戦争であったことが、戦後になって分かったように。
しかし、イラク戦争はかっての日本のように多くの無辜の民衆の命が毎日失われている。それも戦争に無関係の民衆が、その痛み、被害の回復をどうするのか、ブッシュ大統領も小泉首相は2人で何度も会談しているが、そんなことを話し合ったと聞いたことはない。戦争をはじめたり、それを支持した責任を明確にし、その責任をとってもらうことをしないと戦争はいつまでも繰り返される。 この朝、県外にいる4人の孫が次々に「おじいちゃんおめでとう」と電話をかけてきた。喜寿を祝う電話だ。その孫たちの親も戦争を知らない時代だが、戦争のない平和な世界のことをいつも頭の中心において、家のことは妻に多くを頼ってきたが、子どもに戦争を語ることは欠かさなかった。戦争はなぜ始まるのか、誰が始めたのかを考える人間、それは自分で考え、自分で判断することができる人間への成長のために必要なのだ。憲法でいわれている主権者になるためにも必要なのだ。
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小学2・3年の頃、自殺を考えた(1)
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2004年8月8日、77歳、喜寿の年を迎えた。父は64歳で肝臓がん、母は72歳で脳溢血、兄も40歳で脳溢血が原因で死亡した。兄の死亡の遠因は三菱長崎造船所の防空壕内工場での原爆被曝である。現在では二男の私が一番長生きしている。しかし、まだ妹が4人いるので先は分からない。
最近、自分の年齢の前後の人、それも友人・知人の死亡記事がよく目につくようになった。自分がその歳になったことを否応なく意識させられる。だが、これは自然なことだと受け止めている。
人間の生死について最初に考えたのは小学校の低学年のころだった。氏神様のお祭りで手相を見てもらったことがある。「この子は80歳まで生きる」と言われ、“えぇ〜、80歳まで生きられるんだ”と嬉しくなったことを覚えている。
それから2、3年後だと思うが「自殺」を考えたことがある。それも自宅の下を通っている国鉄の日豊本線の溝に隠れていて、汽車が通過する直前に線路に首を乗せれば死ねると具体的な方法まで考えた。「自殺」の理由は、父が母をいじめるのを見て“自分が死ねば父は母をいじめなくなるのでは”という浅はかな思いつきだった。なぜ実行しなかったのかは覚えていない。
2回目に死と生のことを考えたのは戦争との関係だった。昭和18(1943)年から陸軍も少年兵の募集年齢を15歳から14歳に引き下げた。私は15歳9ヶ月になっていた。同級生や一学年下の後輩まで少年兵に次々と志願し始めた。志願しないで徴兵される現役入隊まで待っていたら、既に下級生が上官になっていて殴られることになる。そんな屈辱には耐えられないから少年戦車兵学校に志願しようと考え、そのことを母に相談した。夕方の炊事場で、滅多に怒らない母は言った。
「お前はバカか。あそこ(軍隊)は男ならば一度は絶対に行かなければならないところだ。お前がどんなに行きたくなくても行かなければならないところだ。それも死ぬところだ。死ぬところになぜそんなに急いで行くのか。そんなことが分からないのか。」
今までにない厳しさに母の本気が伝わってきた。学校の先生と母の言うことが全く正反対であることに気付いた。さらに母は「就職してまだ3年も経っていないのにもう飽きたのか。それでは何処に行っても勤まらない。」と言ったきりで、その話は二度としなかった。そのときの母の真剣な目は今も脳裏に焼き付いている。その母の真剣さが私を戦争嫌いの人間にするきっかけになったのだと感謝している。
徴兵検査とヘルニア
以後、私は一度も兵隊に志願しょうと思ったことはなかった。昭和18年12月から徴兵年齢が19歳(数え年)に引き下げられ、私たちは1年繰り上げられ昭和19年3月、富高実業学校で真裸にされ徴兵検査を受けた。徴兵検査官(佐官級将校)の前に立った瞬間、「貴様ァー それで兵隊に来て役に立つと思っているのか!!」、と今にも鉄拳が飛んできそうだった。鉄拳はなかったが「帰ったら直ちに手術しとけー!」と怒鳴られた。結局、乙種合格になり、徴兵2年延期の命令が告げられた。当時私は大腸ヘルニヤだつた。それに2年間の兵役延期が決まり、敗戦まで軍隊には行かずにすんだ。敗戦が一年遅くなっても兵役召集は逃れられたが、半年後には米軍が日向灘海岸に上陸することになっていたから、沖縄県民のように激戦に巻き込まれた間違いない。当時そんなことを考え、米軍戦車にガソリンを瓶に詰めて体当たりするようよく言われていた。私は隠れていて生き延びることを考えていた。ヘルニアもあったが、徴兵2年延期は軍需輸送確保のために鉄道省が軍隊に「要望」、徴兵延期制度があったのだと思う。
兄は私より2歳年上、徴兵検査は甲種合格だった。が、徴兵2年延期になっていた。三菱長崎造船所に旋盤工として徴用されていたからである。その兄に「赤紙」の召集状届き、8月15日に都城23連隊入隊することになった。兄に「赤紙」が来たことを知らせたのは私だった。長崎に原爆が落された情報はすぐ伝わってきた。人も荷物も受付禁止、広島と同じであると指示がきた。兄は死んだだろうと思っていた。8月15日の正午、敗戦を知ったが、兄の入隊のことなどは全く頭になかった。一つは兄は9日の原爆投下で死亡しているだろうと思っていた。もし生きて帰ってきても戦争は終わったのだから召集状に従う必要はないことは、負けた後、郷里に帰る兵士たちに帰る方法を教えていたからである。また、敗戦の日も基地に出入りし、軍需物資の払い下げをもらい駅員、それも近辺の駅員から電話での要望にも応えていた。
長崎原爆投下と兄への召集令状
敗戦から2日後の17日の昼ごろ、汽車は10日ぐらい動かない。駅のホームでぼんやりしていたら、後ろから「タケオ」と呼ぶ声がした。振り向くと兄である。死んだと思っていたから「生きとったのか、長崎はどうなっている」と長崎の被爆直後の状況を聞いた。防空壕をでて荷物とりに寮に走り、トランク一個を手に取ると飛び出した。あちこちに火災が起き、人々が道路に倒れ助けを求めていたが、それより国鉄線路を汽車が来ている駅まで走ったという。汽車が不通のところは歩き、ここに着いたのだ、と言っていた。向かい合っている兄は白人のような白い顔、肌である。防空壕の2階で作業をしていたとき、入り口の方からピカッと光が入り、次に爆風がきて一階に吹き飛ばされたという。身体はと聞いたらシャツを抜いて背中を見せた。子どもの頃、夏休みが終わり登校するときのように真黒に焼けていた。
兄は父母や兄弟の安否を聞くのではなく、23連隊入隊の召集状を見せて「行かなければならない。汽車はどうなっているか」尋ねる。私は「日本は負けたのだ。軍隊は解散している。行く必要はない」と言うが、「罰されるだろう。行く」と言う。「無駄だ。汽車も高鍋駅までは不通だ、戦争に負けて2日経っている。行くだけ損だ」と説得するが、兄は「罰される」と言う。日本の軍隊がどうなっているのか知らないのだ。何の情報もなく、ただ入隊しなければと帰ってきたのだった。いくら話しても「行かなければ」という。私はそのとき思いついた。富高海軍航空隊基地に兄を連れて行って基地の兵隊たちの姿を見せれば理解できると思い航空隊基地に連れて行った。先ず、主計課に行き、兵隊たちから毛布、海軍作業服、煙草、蚊帳、缶詰、乾燥みそなどをいっぱい貰い、それにリヤカーに積んで父母のいる田舎、4キロある我が家に帰らした。今から都城23連隊に行っても毛布一枚どころか、旅費も貰えないと話した。崩壊する軍隊の姿を嫌というほど見た。
敗戦時の富高駅には私より上司は駅長、助役3人、それに50歳を超えた転鉄手が1人、その次は雇員になっていた18歳の私、後は同年かそれより年下の駅員が10人ほどいた。昭和18年には出改札係は男子禁止職種になり数名の女性職員に変わった。昭和20年3月には戦時教育令が公布され、国民学校高等科の生徒以上は授業1年間停止になり、全学校生徒が食糧増産、軍需生産、直接決戦に緊要な業務に総動員された。富高駅にも小学校高等科の女子生徒が毎日20名ぐらい動員され、駅前広場の防空壕掘りや荷物運び、清掃などをさせられていた。
日本は敗北するを考えた
ヘルニアノ手術は戦後だつた。戦時中の人員不足で入院する余裕もなかったこともあるが召集令状がきても戦場より、先ず病院に送られる、それだけ生延びられる、そして戦争は終わるかもと考えていた。しかし、そんな心の中は誰にも話さなかった。「一億一心」「一億玉砕」が合い言葉、死を覚悟させられていた時代だった。
昭和20(1945)年3月18日は全九州地域を米グラマン戦闘機が一斉に来襲、宮崎県だけでなく、全九州が初空襲された。米軍の沖縄上陸作戦の日本軍後方基地撃滅作戦だった。それから以後は連日の空爆がつづいた。海軍特別攻撃隊基地がある富高駅で空爆下の軍需輸送に携わっていた。航空隊基地に出入りし、軍隊の内部も見てその非合理、非人間性、私と同年くらいの兵士が、父ぐらいの召集兵に制裁を加える、こんな軍隊でどうして戦争に勝てるのかと考えるようになっていた。
日本の敗戦を意識するようになったきっかけは前年の夏、大阪の航空機製作所に働いていた叔父が家族を疎開させるために帰郷し、単身で大阪に帰った。その帰る間際に「武夫、死んだら犬死にだぞ、生き延びよ」と言った。その理由は日本は飛行機を作れなくないのだ。国防婦人会が飛行機献金を集めているが、日本はもう飛行機は出来んのだ、反対にアメリカは性能の高い飛行機がすごい勢いで生産されていると聞いた。叔父は戦争は日本が負ける。人に言うなと言って帰った。
その年が明けて昭和20年3月28日、真夜中、空襲警報のサイレンで駅のホームに立つて暗い空を眺めた。高い上空をB29爆撃機の編隊が飛んでいることが爆音でわかる。何機も北西の方から南東に向かって飛んで行く、北九州を爆撃して帰途についているのだと思った。その編隊から遅れて一機飛んできた。よく見ると火を噴いていた。高度がどんどん下がる、富高駅北西の3Km近くの不動時の山中に墜落した。パラシュート三つが開いて人が降りたことが見えた。墜落現場に走った。私より先に10人以上の集落の農家の人が着き、1人の男性が山林の下払いの大鉈を振り上げて今にも米兵に振り下ろそうと構えていた。誰かが「斬るな! 斬るな! 」大声を上げた。大鉈を振り上げていた農民は鉈を下ろした。そのとき、「ああ よかったー」、ほっとした気持ちになったことは今も覚えている。その現場でもう一つ覚えていることがある。降下した米兵の横に数人は十分乗れるゴムポートがあったことだ。米兵たちは小倉憲兵隊に送られたが、駅長室で汽車を待っていたとき、駅長が英語で話をした。駅長にどんな話をしたかと尋ねたら米兵は「1000メートル東に降下すると潜水艦が救助にきている」と言った、というのを聞き驚いた。間違いなく、東へ1000mは太平洋である。日本の敗戦はそこまで近づいているのか、叔父の話は本当だと思った。
初めて見た戦闘機の富高上空の空中戦
後先になるが、3月18日のグラマン機の初空襲の話だが、実際の空中戦を目で直接見たのははじめてでその後は一度も見ることはなかった。その日、米グラマン幾が大挙してきた、富高海軍航空隊基地の零戦機が迎撃に飛び立ち上空で空中戦になった。はじめて見る空中戦、多くの町民の真剣な顔、みんな日本軍が勝つと信じていた。上空で火を噴き落下する飛行機が見えた途端、「ヤッターヤッター」と歓声が起き拍手が起こった。降下する撃墜機が地上に近づくと翼に日の丸が見えた。その瞬間みんなの嘆息、声はくなり、無言になった。撃墜されるのは敵機だと信じていたのが逆で日の丸が見て声を失ったのだ。この空中戦を見ていた私は、日本軍機が次々に撃墜されるのを見ていて負ける理由がわかった。その日の富高町の上空に大きな雲が傘をさしていた。米軍機はその雲の上にいて、基地から日本軍幾が飛び立つと雲の上から米軍機が急降下し、基地から上昇する日本機を待ち合わせていたように機銃を撃つ、日本機の不利な体制だった。これでは勝てないのが当然だと思ったことも記憶に残っている。以後、日本軍機の迎撃は二度と見なかった。この後からは特別攻撃機に作戦が変えられ、米軍機を邀撃する戦闘は一度もなかった。
撃墜された日本軍幾が富高駅東側の畑、三菱石油工場の建設が始っていてた事務所近くに落ちた。基地から救助隊がきて真黒に焼けた日本兵の死骸を収容した。その日、米軍機が何機撃墜されたのか、日本軍機が何機だったのか発表発表は記憶にない。ただ日本軍幾が多かったと覚えている。
米兵は搭乗機で笑っていた
この空中戦以後、空襲は日常化し低空から米軍機の機銃掃射はしばしば見た。駅の東から侵入、西方向に駅舎の真上を飛んだのを何度か見た。軍需品の積み降ろしに来ていた海軍兵士たちは畑や貨車の下に潜り込んだ。ある日、米軍機が細島方向から駅舎を横断するように機銃を撃ってきた。自分の位置が機銃掃射の射程から外れていた貨車の蔭にいた。まるでミシン針で縫うようにダダダダと音と土煙上げて直線にに撃ってきた。米軍機が真上を過ぎたら1人の海軍将校日本刀を抜いて振りかざすし米軍機に向かって叫んでいた。可笑しく思ったこととその姿が網膜に今も消えない。米軍機の進行方向を見ていると、何処を狙っているかは分かる。米軍機を真横に見る位置に自分の身を置き、鉄製の有蓋貨車などの蔭から見ていたら、20〜30メートル先を飛ぶ米兵の顔と鉢合わせした。米兵は私を発見したのか笑っていた。
こんな戦争を体験していたが、不思議と勝つか、負けるか戦争はどうなるかということを話し合ったと言う記憶は全くない。そんな議論、自由な会話はできなかったのだ。してはならないことを気付いていたのだと思うが、「神風」が吹くから勝つと信じさせられていたというか、殆どの人が信じていたのである。子どもの頃から「神様」を信じる習慣、教育、天皇を「現人神」と言っていたのだから無理もないことだった。我が家にはそんな神様信仰の習慣はなかった。自分の頭で考えることさせない時代だったが、人は矛盾や不合理に気付き、自分の頭で考え判断し自分の意志を決める。子どもは子どもなりにそうして発達していく。自分の成長過程を思うとそう思えてならない。物心つく頃から戦争の中で大人に成長した。それが私の戦争を見る目を育てたのだと思っている。
8月15日 敗戦と天皇放送
1945年8月15日の天皇の「敗戦放送」を駅長室で聞いた。雑音と難しい天皇用語で最初は何のことか分からなかったが、しばらく聞いていると戦争が終わり、日本が負けたことが分かった。最初に「戦争は終わった。日本が負けた」と声を出したのは自分だった。駅長が「児玉君ほんとうか」と言う。「本当です。よく聞いとると分かる」と私は言った。しばらくしたら駅長が「本当だ」と言い出した。私はこれで〃死なずにすんだ、生延びられた〃と嬉しかった。なぜあのとき皆より早く戦争が終わったことに気付いたのか、今、考えてみると、戦争は日本が負けるとを思っている人と、日本は勝つ、「神風が吹く」と信じていた人との差ではないかと思う。日本が戦争に負けたことを喜んだ人と、負けたことを信じられず、悔しくて泣いたり、腹を斬って死んだ人もいた。こういう差が生まれるのはやはり自分で日常的に社会の出来事を自分の頭で考える習慣、好奇心も含めて関心を持つ、判断する。そして自分の意見を持つ、それが習慣的になり、自分の認識を持つようになったからだ思う。私が早く気付いたのはそれだと思う。あの天皇放送を聞いたときのことで忘れられないことは嬉しかったことである。
満18歳になったばかりである。敗戦なつたがこれからどうなるのか、そんなことは全くわからなかった。自由とか解放されたという認識は全くなかった。自由や民主主義という言葉さえを知らなかったのであるから。ただ一度「お前のような奴がアメリカ人と同じ自由思想だ」といわれて、大分鉄道錬成所での軍事訓練で横ビンタをされ、運動場の石炭殻の上に永いこと正座させられ制裁を受けたことがあるある。その「自由主義思想」がどんな意味かも知らないのにである。「敗戦放送」聞いて嬉しかった後、次にに口にしたことも覚えている。「今度は日本人がやられる番だ。女、子どもは山の方に逃げることだ」といった。私がそのことを1995年、「平和の塔の史実を考える会」のブックレット「石の証言」を編集しているとき、その話をしたら、敗戦のとき3歳だったsさんから「敗戦直後にはまだ日本人は中国の南京大虐殺や性暴力行為は知らされていなかったから、そんなことは思う人はいかったのでは…」、と反論されたことがある。私は中国戦線に参加していた日本兵士たちが勝ち戦のときは2〜3年で帰還し、二度目の召集になるまで農作業をしていた。そのとき帰還兵はよく手柄話をしていた。自分たちの手柄、とくに女性にしたことを誇らしげに話していたことを少年時代に何度も聞いた、と話した。その頃から戦争に負けた方の国の国民はそうされるのだと思っていたから、今度は日本人がやられると思ったのは当時は常識だった。
敗戦後、宮崎県知事の指令第一号は婦女子を山奥に逃げる指示がだされている。それは「宮崎県政史」に記されている。宮崎市も同じように「婦女子を山奥に逃げよ」というチラシを作成して配布したことが「宮崎市政」記されている。子どもだった私たちでさえ、日本軍の行為を知るようになっていたのだから、県・市の幹部はもっと多くのことを知っていた、いや兵役除隊組は中国の戦場で何があったのかを知っていた。天にツバしたらどうなるか分かっていたのである。
2・1ストと門司鉄道教習所
敗戦から日が経つ程に戦争被害、戦争の悲惨が身に沁みてわかってきた。とくに富高駅から兵役に召集された先輩、友人の戦死が次々わかると自分が生き残ったことへのためらいにも似た気持ちが生まれ、生残った者は何をしなければならないのか、と考えるようになった。それはやがて「戦争はなぜ始るのか、戦争は誰が起したのか」、その疑問は広がってきた。それが知りたい、そんな書籍を読み始める、難しい言葉だが少しづつ騙されていたことが分かってきた。20歳なる前だった。門司鉄道教習所は勉強ばかり、鉄道法規を中心にした教科書、私はそれより社会科学関係の書籍や雑誌を読んでいた。それに唯一の「公民」の時間は九大教授の講義だった。まるで乾いた土地に水が吸い込むように知識を求めた。国鉄規則の勉強よりその方が面白い、入所試験は九州で一番だったが、卒業は中ぐらいだっように覚えている。二度と騙されない人間になる、それが目標だった。「ポツダム宣言」も何度も読んだ。公職追放や農地改革も正しいと思った。
2・1スト、マッカーサー禁止命令
門司鉄道教習所に在所中に有名な1947年2月1日のゼネスト、「2・1ストライキ」に門司駅で参加、数万のデモに参加したこともあった。そのデモの指導者に「自由主義者だ」と制裁を加えた教官を見た。この指導者はスト敗北後には労働運動から遠のいて行ったということを聞いてやっぱりと思った。この教習所と2・1ストの体験は階級社会への目覚めに最も大きな事件になった。ストライキを成功させるため、教習所生徒は門司駅構内の防備に配置された。19歳の青年時代で緊張し、決意もしていた。マッカーサーのスト禁止令が出された。それが私の米占領軍とアメリカの民主主義に疑問を持ち始めた最初だった。吉田茂首相が労働運動指導者を「不逞の輩」と呼び、つづいて47年には「天皇と実業界に戦争責任はない」と占領当局関係者が言明、48年1月には米陸軍長官が「日本を反共の防壁にする」と演説をした。アメリカが占領政策を転換し「ボツダム宣言」による日本の民主化は逆戻りはじめた。このままでは日本は再び封建的な日本にもどる、なんとかしなければと思うようになっていた。
47年4月戦後2回目の総選挙が施行された。まだ19歳、選挙権はなかった。労働組合役員や政党党員でもなく、全く関係はない1人の新しい時代に生きようとする青年だった。選挙には関心を持っていたが、運動にはかかり合わなかった。48年7月、マッカーサーは国家・地方公務員のスト権否認を命令、12月になると岸信介、児玉誉士夫などA級戦犯容疑者が釈放された。再び日本は戦前に戻る、また戦争をするのでは、それを阻止しなければと思うようになっていた。戦争では死にたくないが、戦争を阻止するためには死んでもよい、と決心したのはその頃である。私の職場には共産党員も社会党員もいなかった。だから社会、共産の両党員と一度も話したことも知人もいなかった。当時の私は労働者、農民の政党が二つあるのがわからなかった。どちらか一つあればよいのにと考えたり、どちらかが本物でどちらかがまがい物だろうとまでは考えるようになっていた。その頃から社会党、共産党の歴史について勉強をはじめた。 (その後のことは次の「私と昭和」で書くことにする。)
最近、自分の年齢の前後の人、それも友人・知人の死亡記事がよく目につくようになった。自分がその歳になったことを否応なく意識させられる。だが、これは自然なことだと受け止めている。
人間の生死について最初に考えたのは小学校の低学年のころだった。氏神様のお祭りで手相を見てもらったことがある。「この子は80歳まで生きる」と言われ、“えぇ〜、80歳まで生きられるんだ”と嬉しくなったことを覚えている。
それから2、3年後だと思うが「自殺」を考えたことがある。それも自宅の下を通っている国鉄の日豊本線の溝に隠れていて、汽車が通過する直前に線路に首を乗せれば死ねると具体的な方法まで考えた。「自殺」の理由は、父が母をいじめるのを見て“自分が死ねば父は母をいじめなくなるのでは”という浅はかな思いつきだった。なぜ実行しなかったのかは覚えていない。
2回目に死と生のことを考えたのは戦争との関係だった。昭和18(1943)年から陸軍も少年兵の募集年齢を15歳から14歳に引き下げた。私は15歳9ヶ月になっていた。同級生や一学年下の後輩まで少年兵に次々と志願し始めた。志願しないで徴兵される現役入隊まで待っていたら、既に下級生が上官になっていて殴られることになる。そんな屈辱には耐えられないから少年戦車兵学校に志願しようと考え、そのことを母に相談した。夕方の炊事場で、滅多に怒らない母は言った。
「お前はバカか。あそこ(軍隊)は男ならば一度は絶対に行かなければならないところだ。お前がどんなに行きたくなくても行かなければならないところだ。それも死ぬところだ。死ぬところになぜそんなに急いで行くのか。そんなことが分からないのか。」
今までにない厳しさに母の本気が伝わってきた。学校の先生と母の言うことが全く正反対であることに気付いた。さらに母は「就職してまだ3年も経っていないのにもう飽きたのか。それでは何処に行っても勤まらない。」と言ったきりで、その話は二度としなかった。そのときの母の真剣な目は今も脳裏に焼き付いている。その母の真剣さが私を戦争嫌いの人間にするきっかけになったのだと感謝している。
徴兵検査とヘルニア
以後、私は一度も兵隊に志願しょうと思ったことはなかった。昭和18年12月から徴兵年齢が19歳(数え年)に引き下げられ、私たちは1年繰り上げられ昭和19年3月、富高実業学校で真裸にされ徴兵検査を受けた。徴兵検査官(佐官級将校)の前に立った瞬間、「貴様ァー それで兵隊に来て役に立つと思っているのか!!」、と今にも鉄拳が飛んできそうだった。鉄拳はなかったが「帰ったら直ちに手術しとけー!」と怒鳴られた。結局、乙種合格になり、徴兵2年延期の命令が告げられた。当時私は大腸ヘルニヤだつた。それに2年間の兵役延期が決まり、敗戦まで軍隊には行かずにすんだ。敗戦が一年遅くなっても兵役召集は逃れられたが、半年後には米軍が日向灘海岸に上陸することになっていたから、沖縄県民のように激戦に巻き込まれた間違いない。当時そんなことを考え、米軍戦車にガソリンを瓶に詰めて体当たりするようよく言われていた。私は隠れていて生き延びることを考えていた。ヘルニアもあったが、徴兵2年延期は軍需輸送確保のために鉄道省が軍隊に「要望」、徴兵延期制度があったのだと思う。
兄は私より2歳年上、徴兵検査は甲種合格だった。が、徴兵2年延期になっていた。三菱長崎造船所に旋盤工として徴用されていたからである。その兄に「赤紙」の召集状届き、8月15日に都城23連隊入隊することになった。兄に「赤紙」が来たことを知らせたのは私だった。長崎に原爆が落された情報はすぐ伝わってきた。人も荷物も受付禁止、広島と同じであると指示がきた。兄は死んだだろうと思っていた。8月15日の正午、敗戦を知ったが、兄の入隊のことなどは全く頭になかった。一つは兄は9日の原爆投下で死亡しているだろうと思っていた。もし生きて帰ってきても戦争は終わったのだから召集状に従う必要はないことは、負けた後、郷里に帰る兵士たちに帰る方法を教えていたからである。また、敗戦の日も基地に出入りし、軍需物資の払い下げをもらい駅員、それも近辺の駅員から電話での要望にも応えていた。
長崎原爆投下と兄への召集令状
敗戦から2日後の17日の昼ごろ、汽車は10日ぐらい動かない。駅のホームでぼんやりしていたら、後ろから「タケオ」と呼ぶ声がした。振り向くと兄である。死んだと思っていたから「生きとったのか、長崎はどうなっている」と長崎の被爆直後の状況を聞いた。防空壕をでて荷物とりに寮に走り、トランク一個を手に取ると飛び出した。あちこちに火災が起き、人々が道路に倒れ助けを求めていたが、それより国鉄線路を汽車が来ている駅まで走ったという。汽車が不通のところは歩き、ここに着いたのだ、と言っていた。向かい合っている兄は白人のような白い顔、肌である。防空壕の2階で作業をしていたとき、入り口の方からピカッと光が入り、次に爆風がきて一階に吹き飛ばされたという。身体はと聞いたらシャツを抜いて背中を見せた。子どもの頃、夏休みが終わり登校するときのように真黒に焼けていた。
兄は父母や兄弟の安否を聞くのではなく、23連隊入隊の召集状を見せて「行かなければならない。汽車はどうなっているか」尋ねる。私は「日本は負けたのだ。軍隊は解散している。行く必要はない」と言うが、「罰されるだろう。行く」と言う。「無駄だ。汽車も高鍋駅までは不通だ、戦争に負けて2日経っている。行くだけ損だ」と説得するが、兄は「罰される」と言う。日本の軍隊がどうなっているのか知らないのだ。何の情報もなく、ただ入隊しなければと帰ってきたのだった。いくら話しても「行かなければ」という。私はそのとき思いついた。富高海軍航空隊基地に兄を連れて行って基地の兵隊たちの姿を見せれば理解できると思い航空隊基地に連れて行った。先ず、主計課に行き、兵隊たちから毛布、海軍作業服、煙草、蚊帳、缶詰、乾燥みそなどをいっぱい貰い、それにリヤカーに積んで父母のいる田舎、4キロある我が家に帰らした。今から都城23連隊に行っても毛布一枚どころか、旅費も貰えないと話した。崩壊する軍隊の姿を嫌というほど見た。
敗戦時の富高駅には私より上司は駅長、助役3人、それに50歳を超えた転鉄手が1人、その次は雇員になっていた18歳の私、後は同年かそれより年下の駅員が10人ほどいた。昭和18年には出改札係は男子禁止職種になり数名の女性職員に変わった。昭和20年3月には戦時教育令が公布され、国民学校高等科の生徒以上は授業1年間停止になり、全学校生徒が食糧増産、軍需生産、直接決戦に緊要な業務に総動員された。富高駅にも小学校高等科の女子生徒が毎日20名ぐらい動員され、駅前広場の防空壕掘りや荷物運び、清掃などをさせられていた。
日本は敗北するを考えた
ヘルニアノ手術は戦後だつた。戦時中の人員不足で入院する余裕もなかったこともあるが召集令状がきても戦場より、先ず病院に送られる、それだけ生延びられる、そして戦争は終わるかもと考えていた。しかし、そんな心の中は誰にも話さなかった。「一億一心」「一億玉砕」が合い言葉、死を覚悟させられていた時代だった。
昭和20(1945)年3月18日は全九州地域を米グラマン戦闘機が一斉に来襲、宮崎県だけでなく、全九州が初空襲された。米軍の沖縄上陸作戦の日本軍後方基地撃滅作戦だった。それから以後は連日の空爆がつづいた。海軍特別攻撃隊基地がある富高駅で空爆下の軍需輸送に携わっていた。航空隊基地に出入りし、軍隊の内部も見てその非合理、非人間性、私と同年くらいの兵士が、父ぐらいの召集兵に制裁を加える、こんな軍隊でどうして戦争に勝てるのかと考えるようになっていた。
日本の敗戦を意識するようになったきっかけは前年の夏、大阪の航空機製作所に働いていた叔父が家族を疎開させるために帰郷し、単身で大阪に帰った。その帰る間際に「武夫、死んだら犬死にだぞ、生き延びよ」と言った。その理由は日本は飛行機を作れなくないのだ。国防婦人会が飛行機献金を集めているが、日本はもう飛行機は出来んのだ、反対にアメリカは性能の高い飛行機がすごい勢いで生産されていると聞いた。叔父は戦争は日本が負ける。人に言うなと言って帰った。
その年が明けて昭和20年3月28日、真夜中、空襲警報のサイレンで駅のホームに立つて暗い空を眺めた。高い上空をB29爆撃機の編隊が飛んでいることが爆音でわかる。何機も北西の方から南東に向かって飛んで行く、北九州を爆撃して帰途についているのだと思った。その編隊から遅れて一機飛んできた。よく見ると火を噴いていた。高度がどんどん下がる、富高駅北西の3Km近くの不動時の山中に墜落した。パラシュート三つが開いて人が降りたことが見えた。墜落現場に走った。私より先に10人以上の集落の農家の人が着き、1人の男性が山林の下払いの大鉈を振り上げて今にも米兵に振り下ろそうと構えていた。誰かが「斬るな! 斬るな! 」大声を上げた。大鉈を振り上げていた農民は鉈を下ろした。そのとき、「ああ よかったー」、ほっとした気持ちになったことは今も覚えている。その現場でもう一つ覚えていることがある。降下した米兵の横に数人は十分乗れるゴムポートがあったことだ。米兵たちは小倉憲兵隊に送られたが、駅長室で汽車を待っていたとき、駅長が英語で話をした。駅長にどんな話をしたかと尋ねたら米兵は「1000メートル東に降下すると潜水艦が救助にきている」と言った、というのを聞き驚いた。間違いなく、東へ1000mは太平洋である。日本の敗戦はそこまで近づいているのか、叔父の話は本当だと思った。
初めて見た戦闘機の富高上空の空中戦
後先になるが、3月18日のグラマン機の初空襲の話だが、実際の空中戦を目で直接見たのははじめてでその後は一度も見ることはなかった。その日、米グラマン幾が大挙してきた、富高海軍航空隊基地の零戦機が迎撃に飛び立ち上空で空中戦になった。はじめて見る空中戦、多くの町民の真剣な顔、みんな日本軍が勝つと信じていた。上空で火を噴き落下する飛行機が見えた途端、「ヤッターヤッター」と歓声が起き拍手が起こった。降下する撃墜機が地上に近づくと翼に日の丸が見えた。その瞬間みんなの嘆息、声はくなり、無言になった。撃墜されるのは敵機だと信じていたのが逆で日の丸が見て声を失ったのだ。この空中戦を見ていた私は、日本軍機が次々に撃墜されるのを見ていて負ける理由がわかった。その日の富高町の上空に大きな雲が傘をさしていた。米軍機はその雲の上にいて、基地から日本軍幾が飛び立つと雲の上から米軍機が急降下し、基地から上昇する日本機を待ち合わせていたように機銃を撃つ、日本機の不利な体制だった。これでは勝てないのが当然だと思ったことも記憶に残っている。以後、日本軍機の迎撃は二度と見なかった。この後からは特別攻撃機に作戦が変えられ、米軍機を邀撃する戦闘は一度もなかった。
撃墜された日本軍幾が富高駅東側の畑、三菱石油工場の建設が始っていてた事務所近くに落ちた。基地から救助隊がきて真黒に焼けた日本兵の死骸を収容した。その日、米軍機が何機撃墜されたのか、日本軍機が何機だったのか発表発表は記憶にない。ただ日本軍幾が多かったと覚えている。
米兵は搭乗機で笑っていた
この空中戦以後、空襲は日常化し低空から米軍機の機銃掃射はしばしば見た。駅の東から侵入、西方向に駅舎の真上を飛んだのを何度か見た。軍需品の積み降ろしに来ていた海軍兵士たちは畑や貨車の下に潜り込んだ。ある日、米軍機が細島方向から駅舎を横断するように機銃を撃ってきた。自分の位置が機銃掃射の射程から外れていた貨車の蔭にいた。まるでミシン針で縫うようにダダダダと音と土煙上げて直線にに撃ってきた。米軍機が真上を過ぎたら1人の海軍将校日本刀を抜いて振りかざすし米軍機に向かって叫んでいた。可笑しく思ったこととその姿が網膜に今も消えない。米軍機の進行方向を見ていると、何処を狙っているかは分かる。米軍機を真横に見る位置に自分の身を置き、鉄製の有蓋貨車などの蔭から見ていたら、20〜30メートル先を飛ぶ米兵の顔と鉢合わせした。米兵は私を発見したのか笑っていた。
こんな戦争を体験していたが、不思議と勝つか、負けるか戦争はどうなるかということを話し合ったと言う記憶は全くない。そんな議論、自由な会話はできなかったのだ。してはならないことを気付いていたのだと思うが、「神風」が吹くから勝つと信じさせられていたというか、殆どの人が信じていたのである。子どもの頃から「神様」を信じる習慣、教育、天皇を「現人神」と言っていたのだから無理もないことだった。我が家にはそんな神様信仰の習慣はなかった。自分の頭で考えることさせない時代だったが、人は矛盾や不合理に気付き、自分の頭で考え判断し自分の意志を決める。子どもは子どもなりにそうして発達していく。自分の成長過程を思うとそう思えてならない。物心つく頃から戦争の中で大人に成長した。それが私の戦争を見る目を育てたのだと思っている。
8月15日 敗戦と天皇放送
1945年8月15日の天皇の「敗戦放送」を駅長室で聞いた。雑音と難しい天皇用語で最初は何のことか分からなかったが、しばらく聞いていると戦争が終わり、日本が負けたことが分かった。最初に「戦争は終わった。日本が負けた」と声を出したのは自分だった。駅長が「児玉君ほんとうか」と言う。「本当です。よく聞いとると分かる」と私は言った。しばらくしたら駅長が「本当だ」と言い出した。私はこれで〃死なずにすんだ、生延びられた〃と嬉しかった。なぜあのとき皆より早く戦争が終わったことに気付いたのか、今、考えてみると、戦争は日本が負けるとを思っている人と、日本は勝つ、「神風が吹く」と信じていた人との差ではないかと思う。日本が戦争に負けたことを喜んだ人と、負けたことを信じられず、悔しくて泣いたり、腹を斬って死んだ人もいた。こういう差が生まれるのはやはり自分で日常的に社会の出来事を自分の頭で考える習慣、好奇心も含めて関心を持つ、判断する。そして自分の意見を持つ、それが習慣的になり、自分の認識を持つようになったからだ思う。私が早く気付いたのはそれだと思う。あの天皇放送を聞いたときのことで忘れられないことは嬉しかったことである。
満18歳になったばかりである。敗戦なつたがこれからどうなるのか、そんなことは全くわからなかった。自由とか解放されたという認識は全くなかった。自由や民主主義という言葉さえを知らなかったのであるから。ただ一度「お前のような奴がアメリカ人と同じ自由思想だ」といわれて、大分鉄道錬成所での軍事訓練で横ビンタをされ、運動場の石炭殻の上に永いこと正座させられ制裁を受けたことがあるある。その「自由主義思想」がどんな意味かも知らないのにである。「敗戦放送」聞いて嬉しかった後、次にに口にしたことも覚えている。「今度は日本人がやられる番だ。女、子どもは山の方に逃げることだ」といった。私がそのことを1995年、「平和の塔の史実を考える会」のブックレット「石の証言」を編集しているとき、その話をしたら、敗戦のとき3歳だったsさんから「敗戦直後にはまだ日本人は中国の南京大虐殺や性暴力行為は知らされていなかったから、そんなことは思う人はいかったのでは…」、と反論されたことがある。私は中国戦線に参加していた日本兵士たちが勝ち戦のときは2〜3年で帰還し、二度目の召集になるまで農作業をしていた。そのとき帰還兵はよく手柄話をしていた。自分たちの手柄、とくに女性にしたことを誇らしげに話していたことを少年時代に何度も聞いた、と話した。その頃から戦争に負けた方の国の国民はそうされるのだと思っていたから、今度は日本人がやられると思ったのは当時は常識だった。
敗戦後、宮崎県知事の指令第一号は婦女子を山奥に逃げる指示がだされている。それは「宮崎県政史」に記されている。宮崎市も同じように「婦女子を山奥に逃げよ」というチラシを作成して配布したことが「宮崎市政」記されている。子どもだった私たちでさえ、日本軍の行為を知るようになっていたのだから、県・市の幹部はもっと多くのことを知っていた、いや兵役除隊組は中国の戦場で何があったのかを知っていた。天にツバしたらどうなるか分かっていたのである。
2・1ストと門司鉄道教習所
敗戦から日が経つ程に戦争被害、戦争の悲惨が身に沁みてわかってきた。とくに富高駅から兵役に召集された先輩、友人の戦死が次々わかると自分が生き残ったことへのためらいにも似た気持ちが生まれ、生残った者は何をしなければならないのか、と考えるようになった。それはやがて「戦争はなぜ始るのか、戦争は誰が起したのか」、その疑問は広がってきた。それが知りたい、そんな書籍を読み始める、難しい言葉だが少しづつ騙されていたことが分かってきた。20歳なる前だった。門司鉄道教習所は勉強ばかり、鉄道法規を中心にした教科書、私はそれより社会科学関係の書籍や雑誌を読んでいた。それに唯一の「公民」の時間は九大教授の講義だった。まるで乾いた土地に水が吸い込むように知識を求めた。国鉄規則の勉強よりその方が面白い、入所試験は九州で一番だったが、卒業は中ぐらいだっように覚えている。二度と騙されない人間になる、それが目標だった。「ポツダム宣言」も何度も読んだ。公職追放や農地改革も正しいと思った。
2・1スト、マッカーサー禁止命令
門司鉄道教習所に在所中に有名な1947年2月1日のゼネスト、「2・1ストライキ」に門司駅で参加、数万のデモに参加したこともあった。そのデモの指導者に「自由主義者だ」と制裁を加えた教官を見た。この指導者はスト敗北後には労働運動から遠のいて行ったということを聞いてやっぱりと思った。この教習所と2・1ストの体験は階級社会への目覚めに最も大きな事件になった。ストライキを成功させるため、教習所生徒は門司駅構内の防備に配置された。19歳の青年時代で緊張し、決意もしていた。マッカーサーのスト禁止令が出された。それが私の米占領軍とアメリカの民主主義に疑問を持ち始めた最初だった。吉田茂首相が労働運動指導者を「不逞の輩」と呼び、つづいて47年には「天皇と実業界に戦争責任はない」と占領当局関係者が言明、48年1月には米陸軍長官が「日本を反共の防壁にする」と演説をした。アメリカが占領政策を転換し「ボツダム宣言」による日本の民主化は逆戻りはじめた。このままでは日本は再び封建的な日本にもどる、なんとかしなければと思うようになっていた。
47年4月戦後2回目の総選挙が施行された。まだ19歳、選挙権はなかった。労働組合役員や政党党員でもなく、全く関係はない1人の新しい時代に生きようとする青年だった。選挙には関心を持っていたが、運動にはかかり合わなかった。48年7月、マッカーサーは国家・地方公務員のスト権否認を命令、12月になると岸信介、児玉誉士夫などA級戦犯容疑者が釈放された。再び日本は戦前に戻る、また戦争をするのでは、それを阻止しなければと思うようになっていた。戦争では死にたくないが、戦争を阻止するためには死んでもよい、と決心したのはその頃である。私の職場には共産党員も社会党員もいなかった。だから社会、共産の両党員と一度も話したことも知人もいなかった。当時の私は労働者、農民の政党が二つあるのがわからなかった。どちらか一つあればよいのにと考えたり、どちらかが本物でどちらかがまがい物だろうとまでは考えるようになっていた。その頃から社会党、共産党の歴史について勉強をはじめた。 (その後のことは次の「私と昭和」で書くことにする。)